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2013年10月13日
まだ書きかけですが~。鹿篭豚物語(仮題)
資料収集中で、まだ書きかけです。ほとんどは、枕崎市誌からの抜粋した文章ですが、鹿篭豚の紹介のために~。
明治三十五年(1902年) 日本初の養豚組合「有限責任東南方村養豚購買組合」の発足。明治四十三年有限責任から「無限責任東南方村養豚信用購買販売利用組合」を設立。初代組合長は園田兵助だった。
明治四十三年(1910年) 園田兵助は、英国から輸入したバークシャー種の飼養につとめ、全国に先駆けて種豚登録制度を創設し、種雄豚の手付け、子豚への血統書の交付を行うなどして、品種の改良に努めた。
その後、枕崎の養豚事業は発達し、年間生産頭数5000頭に達した。(明治四十四年・西暦1911年)
大正に入り、台湾、沖縄、朝鮮、満州などに種豚を輸出するまでにいたる。
昭和に入り、食肉の需要の増加に伴い生産豚のほか肉豚の飼養も増加して行った。
昭和十年二月六日 園田兵助死去。養豚組合発足から初代組合長として28年間、心血を注いで活動した。
昭和十二年日華事変の勃発とともに養豚業も他の畜産業と同様に次第に衰退していった。
太平洋戦争に突入してからは食糧増産が叫ばれて養豚は顧られなくなった。
終戦直前時には東西鹿篭に17頭の豚しか残っていなかった。生き残ったわずかなこの豚が戦後の枕崎養豚業の復興に寄与することになる。
太平洋戦争が終わり平和になると、がぜん養豚熱が高まった。
昭和三十年ごろにいたって通山善之助宅に飼育の元祖となる通山系統が全国的に名声を広めた。
昭和三十四年ごろ、全国的に雑種ブームが到来し従来の黒豚(バークシャー種)が劣等であるかのような考え方が強くなりバークシャー種の品種改良がおざなりになりバークシャーの生産地からバークシャーの優良品種が減少していった。しかし枕崎だけは、良種のバークシャーが残っており、海外輸出が盛んに行われた。
昭和三十九年 北海道の養豚家松浦武徳がバークシャー種豚を求め渡英するも見当たらずオーストラリアに渡るが「黒豚の良種がほしいなら、日本の枕崎へ行け」といわれ枕崎から37頭の黒豚を買い付けて帰った。
太平洋戦争後、園田兵助のバークシャーが十六頭のこり、これを森繁雄・勇蔵兄弟が英国から種牡豚を購入して、前述のバークシャーとかけ合わせ品種の改良に努めた結果、型や肉質の優れた豚ができ、第一回全国畜産共進会から連続4回優勝して鹿篭豚の名声を全国に博した。
昭和三十六年四月全日本豚共進会で枕崎市の「フクシマ・スエジ六号」と「トーリヤマ・クワバタ・キホーテ一四五号」がそろってバークシャー種の日本一に選ばれた。鹿児島県から10頭が参加しそのうちの6頭が枕崎の豚で、6頭全てが入賞し枕崎豚の名を全国に広めた。
一方、肉豚として東京芝浦市場で鹿篭豚の折り紙がつけられ、当時日本一の豚として高く評価された。第一次黒豚ブームの到来である。
鹿篭豚の由来は、当時枕崎の鹿篭駅から貨車に乗せ東京までまで出荷していた際に、貨車に「鹿篭」の車票ついていたことに起因する。
以上ひとまずここまで。昭和40年代に黒豚の養豚は廃れていきます。
また次回~~。
従業員Z。
明治三十五年(1902年) 日本初の養豚組合「有限責任東南方村養豚購買組合」の発足。明治四十三年有限責任から「無限責任東南方村養豚信用購買販売利用組合」を設立。初代組合長は園田兵助だった。
明治四十三年(1910年) 園田兵助は、英国から輸入したバークシャー種の飼養につとめ、全国に先駆けて種豚登録制度を創設し、種雄豚の手付け、子豚への血統書の交付を行うなどして、品種の改良に努めた。
その後、枕崎の養豚事業は発達し、年間生産頭数5000頭に達した。(明治四十四年・西暦1911年)
大正に入り、台湾、沖縄、朝鮮、満州などに種豚を輸出するまでにいたる。
昭和に入り、食肉の需要の増加に伴い生産豚のほか肉豚の飼養も増加して行った。
昭和十年二月六日 園田兵助死去。養豚組合発足から初代組合長として28年間、心血を注いで活動した。
昭和十二年日華事変の勃発とともに養豚業も他の畜産業と同様に次第に衰退していった。
太平洋戦争に突入してからは食糧増産が叫ばれて養豚は顧られなくなった。
終戦直前時には東西鹿篭に17頭の豚しか残っていなかった。生き残ったわずかなこの豚が戦後の枕崎養豚業の復興に寄与することになる。
太平洋戦争が終わり平和になると、がぜん養豚熱が高まった。
昭和三十年ごろにいたって通山善之助宅に飼育の元祖となる通山系統が全国的に名声を広めた。
昭和三十四年ごろ、全国的に雑種ブームが到来し従来の黒豚(バークシャー種)が劣等であるかのような考え方が強くなりバークシャー種の品種改良がおざなりになりバークシャーの生産地からバークシャーの優良品種が減少していった。しかし枕崎だけは、良種のバークシャーが残っており、海外輸出が盛んに行われた。
昭和三十九年 北海道の養豚家松浦武徳がバークシャー種豚を求め渡英するも見当たらずオーストラリアに渡るが「黒豚の良種がほしいなら、日本の枕崎へ行け」といわれ枕崎から37頭の黒豚を買い付けて帰った。
太平洋戦争後、園田兵助のバークシャーが十六頭のこり、これを森繁雄・勇蔵兄弟が英国から種牡豚を購入して、前述のバークシャーとかけ合わせ品種の改良に努めた結果、型や肉質の優れた豚ができ、第一回全国畜産共進会から連続4回優勝して鹿篭豚の名声を全国に博した。
昭和三十六年四月全日本豚共進会で枕崎市の「フクシマ・スエジ六号」と「トーリヤマ・クワバタ・キホーテ一四五号」がそろってバークシャー種の日本一に選ばれた。鹿児島県から10頭が参加しそのうちの6頭が枕崎の豚で、6頭全てが入賞し枕崎豚の名を全国に広めた。
一方、肉豚として東京芝浦市場で鹿篭豚の折り紙がつけられ、当時日本一の豚として高く評価された。第一次黒豚ブームの到来である。
鹿篭豚の由来は、当時枕崎の鹿篭駅から貨車に乗せ東京までまで出荷していた際に、貨車に「鹿篭」の車票ついていたことに起因する。
以上ひとまずここまで。昭和40年代に黒豚の養豚は廃れていきます。
また次回~~。
従業員Z。
2013年10月13日
朝晩涼しくなりましたのでカニ料理など~。
だいぶ、朝晩涼しくなりましたので~、秋を飛び越えて冬向け新メニューのご紹介~~。

お一人様用1,500円です。野菜付で1,800円でご提供いたします。
明日から、開始します。
従業員Z。

お一人様用1,500円です。野菜付で1,800円でご提供いたします。
明日から、開始します。
従業員Z。
2013年10月13日
いい天気のランチバイキングは~~
いい天気ですね。連休の中日のランチバイキングは~~。

腹皮塩焼き。
酢豚。
鶏のから揚げ。
野菜サラダ。
卵焼き。
ニラ玉子。
空心菜と鶏もも肉のオイスター炒め。
サーモンの塩焼き。
スパサラ。
野菜炒め。

お刺身は、かつおのタタキ。

昨日のMBCで放送された、当店の枕崎鰹船人めし。
かつおラーメンもあります。
以上でございます。
従業員Z。
昨日は、お店の名前が放送されなくて・・・・意気消沈の従業員Z。であった。(T.T)

腹皮塩焼き。
酢豚。
鶏のから揚げ。
野菜サラダ。
卵焼き。
ニラ玉子。
空心菜と鶏もも肉のオイスター炒め。
サーモンの塩焼き。
スパサラ。
野菜炒め。

お刺身は、かつおのタタキ。

昨日のMBCで放送された、当店の枕崎鰹船人めし。
かつおラーメンもあります。
以上でございます。
従業員Z。
昨日は、お店の名前が放送されなくて・・・・意気消沈の従業員Z。であった。(T.T)