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2011年10月27日
枕崎の伝説:鹿篭の地名の由来。
火の神公園に一枚の案内看板があります。そこに枕崎の昔の地名「鹿篭」の由来が~~。
案内板には、
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神代の昔、霧島の高千穂峰に、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫、ニニギノミコトが降臨してのち、都を吾田宮に定められ、笠狭野間崎(カササノマミサキ)のオオヤマツミノカミの娘、コノハナサクヤヒメノミコトをおきさきにむかえられて、お生まれになったのが、海幸彦(火照命・ホテリノミコト)と山幸彦(火遠理命・ホオリノミコト・別名彦火火出見尊・ヒコホホデミノミコト)のご兄弟でした。
山幸彦は兄神海幸彦の釣り針をなくされて、探しに出かけられました。
国分八幡下のカゴ山から舟を出し、錦江湾を南下した目なしかごは、黒潮に乗り、最初に着いた場所が開聞岳と向い合う、この景勝の地鹿篭の海岸であったというので、山幸彦の別名「火の神」を、ここ一帯の名称にしたということです。
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と記載されています。
それとは、別に頴娃町に伝説として次のように伝えられています。
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山幸彦が海幸彦の釣針を探しに出かけられたとき、国分八幡下のカゴ山から、目なし篭に乗って出発された。そして最初に着いた場所が、鹿籠の海岸であった。
(徳留秋輝-「南薩の伝説」を参考)
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まだ、ほかにも伝説があるようです、山幸彦が海幸彦の釣り針を探し行くときに乗った「かご」が、鹿篭の地名の由来となったと考えるのは案外あたっているような気がします。
枕崎の地名の由来で、枕崎市誌には、
昔、神様が枕に乗って海を渡ってきた。その枕がついたあたりを、土地の人たちは「まくらざき」と呼び、それ以来、枕崎という地名ができたという。
という伝説が記載されています。
この神様が、山幸彦だったり、枕が「かご」だったりするのかな~とも考えられますね。
鹿篭の地名の由来について、HPでshusen氏詳しく紹介されています。
「shusenさんの鹿篭という地名の由来」
どうぞご覧ください。
海幸・山幸の話は、竜宮伝説の元となったという話もありますが、知覧にも豊玉姫神社もあるし意外と言い伝えだけではなさそうですね~。
鹿児島の由来も、もとは篭島らしいので「かご」っておもしろいキーワードのような気がします。
従業員Z。
知覧には
案内板には、
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神代の昔、霧島の高千穂峰に、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫、ニニギノミコトが降臨してのち、都を吾田宮に定められ、笠狭野間崎(カササノマミサキ)のオオヤマツミノカミの娘、コノハナサクヤヒメノミコトをおきさきにむかえられて、お生まれになったのが、海幸彦(火照命・ホテリノミコト)と山幸彦(火遠理命・ホオリノミコト・別名彦火火出見尊・ヒコホホデミノミコト)のご兄弟でした。
山幸彦は兄神海幸彦の釣り針をなくされて、探しに出かけられました。
国分八幡下のカゴ山から舟を出し、錦江湾を南下した目なしかごは、黒潮に乗り、最初に着いた場所が開聞岳と向い合う、この景勝の地鹿篭の海岸であったというので、山幸彦の別名「火の神」を、ここ一帯の名称にしたということです。
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と記載されています。
それとは、別に頴娃町に伝説として次のように伝えられています。
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山幸彦が海幸彦の釣針を探しに出かけられたとき、国分八幡下のカゴ山から、目なし篭に乗って出発された。そして最初に着いた場所が、鹿籠の海岸であった。
(徳留秋輝-「南薩の伝説」を参考)
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まだ、ほかにも伝説があるようです、山幸彦が海幸彦の釣り針を探し行くときに乗った「かご」が、鹿篭の地名の由来となったと考えるのは案外あたっているような気がします。
枕崎の地名の由来で、枕崎市誌には、
昔、神様が枕に乗って海を渡ってきた。その枕がついたあたりを、土地の人たちは「まくらざき」と呼び、それ以来、枕崎という地名ができたという。
という伝説が記載されています。
この神様が、山幸彦だったり、枕が「かご」だったりするのかな~とも考えられますね。
鹿篭の地名の由来について、HPでshusen氏詳しく紹介されています。
「shusenさんの鹿篭という地名の由来」
どうぞご覧ください。
海幸・山幸の話は、竜宮伝説の元となったという話もありますが、知覧にも豊玉姫神社もあるし意外と言い伝えだけではなさそうですね~。
鹿児島の由来も、もとは篭島らしいので「かご」っておもしろいキーワードのような気がします。
従業員Z。
知覧には
2011年10月26日
河辺郡嘉古村
歴史書に、初めて登場する、枕崎(鹿篭)の古い地名です。
島津氏5代太守貞久が、正平14年(1359年)に七ヶ条の置文(書置き)を定め、師久を惣領(跡取り)として、同時に10通の譲り状を認めて領地の一部を処分した。その1通の中に、
「松浦女房に、薩摩国山門院内三か村ならびに脇本村および、同国河辺郡内嘉古村」譲りその死後は惣領、師久に返還するように
と記録されているそうで、この時代ごろから一村を形成していたとのことです。
たまに、枕崎の歴史など触れるようにしてみたいと思います。
従業員Z。
次回、海幸、山幸かな~。
島津氏5代太守貞久が、正平14年(1359年)に七ヶ条の置文(書置き)を定め、師久を惣領(跡取り)として、同時に10通の譲り状を認めて領地の一部を処分した。その1通の中に、
「松浦女房に、薩摩国山門院内三か村ならびに脇本村および、同国河辺郡内嘉古村」譲りその死後は惣領、師久に返還するように
と記録されているそうで、この時代ごろから一村を形成していたとのことです。
たまに、枕崎の歴史など触れるようにしてみたいと思います。
従業員Z。
次回、海幸、山幸かな~。